アルクトゥルスの空

宇宙人すばるの地球生活滞在記。時どき、知り合いのUFO遭遇体験の聞き書きなど。本家イラスト&音楽サイトは http://subarutei.blue

ル・グウィン『闇の左手』感想 -性別と友情についての考察

アーシュラ・K・ル・グウィンの『闇の左手』を読み終えた。

 

惑星間の宇宙連盟に加入していない、極寒の惑星〈冬〉において、宇宙連盟からの単身の使者ゲンリー・アイが、連盟への加入を呼びかけるため二大国家を渡り歩く話でありーー、そしてまたこの惑星〈冬〉の異星人たちの生き方や文化、宗教との、観察と交流の記録である。

 

しかしこんなふうに筋書きを書いてみても、私がこの物語の世界で受けた二つの大きな衝撃の要素の、そのどちらの説明のかけらにもなっていない。

 

ひとつの衝撃は、この惑星〈冬〉の異星人が、両性具有の中性の人間であるという点である。月に一度、動物のような発情期があり、その期間はカタツムリのように男性にも女性にも変容する。しかしそれ以外の多くの期間は、性別も性欲といったものも彼らは持たない。

 

どの人間も、父親にも母親にもなりうる。単性の社会である。兄弟でも夫婦になることがあり、老翁の「私の息子たちの息子」といった血族が領地を継ぐ者であったりする。

 

宇宙連盟からの使節ゲンリー・アイは地球人の男性である。彼は現地の中性人間たちから見れば「奇形」であり、年中発情期にあるということで「変態性欲者」であり、しかし一方で彼の友人になった者は彼を見て「年中性別があるのに、その性欲はいかに低く抑えられているのか」と不思議がる、そしてゲンリーの話す「女性」という未知の存在のことは想像もつかないというーー。

 

「女性」について、「妊娠している間の我々(中性人間)のようなものか」という認識はなされるのだが、社会的に、生物的に、あるいは様々な要素で、男性(使者ゲンリーが代表している)とは、性格や思考や向いていることが違う、という点は、単性社会のここの人々の理解を超えている、という描かれかたである。

 

(まこと、女性という言い回しや括り方の「第二の性」であることを痛感する点であるが、しかしこの物語の主題はそこにはなく、深くは描かれない。ただひたすら現地の「両性人間」「中性人間」の考え方、ふるまい、社会をゲンリーを通し考察するだけで、読者も手一杯である)

 

 

 

性の主題をさておいて、この物語で描かれているのは、ゲンリー・アイともうひとりの語り手、王国の総理大臣をしていた人物エストラーベンとの、友情であり、異星人間に結ばれた「愛」である。

 

これは地球人でいうどういった種類の友情にあたるのか、その答えはただ「友情だ」と単純なのであるがーー、「同性の友人なのか、異性の友人に近いのか」というと、一気にその模様は複雑怪奇になる。

 

 

 

言い忘れないうちに書いておくが、この物語の両性人間社会というものがずば抜けて奇異で興味を惹き、多くの印象を得たというのは私の個人的な感想でーー、この物語、惑星の人々には、性別に匹敵するくらい考察のしがいのある宗教観、社会規範、礼節、といったものがある。(シフグレソルというのがどういうもの、概念であるのか、私は最後まで理解が追いつかなかった)

 

ただ私は個人的に、この惑星社会を見て、異星人間の友情の物語を見て、性別という面からなにを感じたかを、多くの女性や男性や性的マイノリティ、そして腐女子ジェンダー論者を名乗る友人知人に聞いてみたい、という衝動にかられたのである。

 

(以降に物語の核心などを語るので、まだ読んでいない人には警告を)

 

 

 

地球人の私には衝撃であった世界観のひとつに、ゲンリーが「どんな友人も新月になれば愛人になってしまうこの世界で、いったいどんな友情があるというのか(愛人になりえない自分との間に)」といったことを書いている場面がある。

 

実際、この惑星の大人たちの人間関係を見ていると、男性同士とも女性同士とも言いがたい同性の、生涯の友人との間に子どもがいる(子どもはみな「息子」表記の存在である)、といった感じで、非常にふしぎである。ふしぎな感じがするのは、子どもたちのことを語る二人の大人が、なんの性別も感じさせないせいかもしれない。男性も女性も、父性も母性も。

 

話を戻すが、この世界で地球人が現地人と特別な友人になるというのは、「決して生涯恋人にはならないとお互いで決めあっている男女の友情」のような、非常になんともいいがたいものなのだ(と思う)。

 

とはいえ、この友情の理解は、たやすくもある。

性別に多くを囚われる以前の、子どもの意識と社会での、単なる友人、親友というやつである。

 

(それが大人になってからの地球人の同性の友人というものとどう違うのかというとーー、使者ゲンリーと現地人エストラーベンは、やはり「同性」ではないのである)

 

エストラーベンという人物は、まったくどのような容姿なのか、想像がつかなかった。

若くはない。強大な王国の、総理大臣である。美しいと書かれている場面もある。脂肪太りだという。肌は浅黒い。地球人の女性よりも背が低いという。ゲンリーより遥かに力は弱い。

 

しかしまぁ、ゲンリーとエストラーベンは非常に過酷で正気の沙汰とは思えない氷原の旅によって、もとの容姿などまったく関係なくなるかのような、苛烈な容貌になってしまうのだがーー。

 

エストラーベンの人間性の中にも、ゲンリーは、相手を「彼」だと無意識に思い込んでしまうせいで、多々驚くことになる。そんなことにこだわる男のプライドというものは彼にはない、彼はこういう点では非常に女性的な態度や言い回しで相互理解が得られない、といった具合に。

 

 

しかしとはいえ、この物語を読んでいて、エストラーベンを、あるいは妊娠・出産するも1時間で子どもを亡くす王を、「同性だ、女性だ」と思う女性読者はいないだろうし、「女性だ」と感じる男性読者もいないのではないか。

 

上記の言い回しには少々詭弁めいたところがあるが、そうである、あるいは男性読者も女性読者も、「同性だ」と言外に感じるような親近感は持つかもしれない。そこがこの物語の惑星の人々のもつ、ふしぎな魅力である。(あるいは「異星人だ」と感じるかーー)

 

 

もし、とはいえ結局は主人公も惑星の人々も、「女性」というものを想像も理解もできない、男性社会の物語ではないかーーという感想を持つ人があったら、話を詳しく聞いてみたいところだ。

 

個人的に思うに、この物語の惑星に降り立っている間、読者は自分が男性であるか女性であるかということを、忘れて読むのではないか。しかし「自分には性別がある」という点は強く、日常生活よりより強く意識させられる。「この惑星の人々とは違う」と。その、「自分には性別があるが、この惑星の人々はなんだ、どう解釈すればいい」という理解の壁を乗り越えていく間、自分の性別がなにであるかにはあまり注意は払われないような気がするのだ。

 

 

余談ながら、このような感想を抱いた私自身の性別であるがーー、トランスジェンダーを志し、性同一性障害の認定までもらうも、日常的には生れながらの性別で生きていくところに落ち着いた、とだけ記しておく。

 

(私には、性別以外に、自分が何者であるかに関わるすさまじく深刻な問いが多くあったのだ。神学・信仰上の、あるいは魂の故郷に関することの、霊界との交信といった不可解なことへの)

 

 

 

それにしてもエストラーベンはなぜ、あんなことになってしまったのか。

これは単なる嘆きだ。

 

彼が国家にしたこと、惑星にしたこと、使者ゲンリーにしたこと、人類というものにしたことの偉大さーー、それがよく噛み締められるほど、私は読後多くの時間を過ごしていない。

 

ただ、彼が使者ゲンリーにした、与えた、全人間存在をかけた「親切のようなもの」の規模は、あまりに衝撃的だった。それがどんな義務感や思惑からなされたことなのか、ゲンリーでなくたって信じ難かっただろう。

 

そしてそれは「親切のようなもの」を遥かに越えて、二人の命を賭した大逃避行の旅の決行と遂行をもたらしたがーー。

 

ゲンリーは惑星〈冬〉の未来の可能性を開くためにたったひとりで送り込まれた使節であり、惑星〈冬〉でゲンリーを受け入れ動いてくれた現地人も、またたったひとりだったのだ。

 

想像を越えて孤独な二人の異星人の友情と努力と命によって、歴史は動かされたのだ。

 

この物語は、そういう物語であったと思う。